子どもは周辺にいる大人の影響を受けて成長します。
何事においても一番近くにいる大人といえば「保護者」ですし、学業であれば学校の先生、野球であればグラウンドにいる指導者かも知れません。
「私は我が子を甘やかしています」と公言する保護者はほとんどいないと思います。「立派な人に成長して欲しい」という想いを持って、時に優しく、時に厳しく育てていると思います。
さて「厳しさ」とは何でしょう?
「あれやった?これやった?」と一分の隙もないくらい完璧を求めることでしょうか?常に監視して、「大人が考える正解」を外れた時に干渉して修正を促すのが『厳しさ』でしょうか?
「しつけ」と称して子どもの一挙手一投足に介入することは厳しさではなく過干渉だと思います。
「やれと言われていないのでやっていない」
「ダメと言われていないからやった」
大人でもこういう人はいます。
これは「やるorやらない」の判断基準を他者に委ねてしまっている状態ですが、この考え方は周囲の過干渉によって形成されることが多いと考えられます。規則の多い組織では規則がないと動けない人が増え、それを補うためにまた規則が増えます。あれこれと細かく干渉するほど、干渉がなければ判断や行動ができなくなってしまうのです。厳しく「しつけ」をしているつもりが、実は自分で何も判断しない甘い人を育ててしまっている可能性もあります。
では「人が成長する厳しさ」とはどんなものでしょう?
私は「責任感」と「自分の責任を広く捉える視点」の形成を促すことだと思います。
「あいつがエラーしたから負けた」ではなく「その子がエラーしないよう、自分にできることはなかったか?」とか、「あいつのグラウンド整備が遅いから練習開始が遅れた」ではなく「自分が手伝ってあげればもっと早くスタートできたのではないか?」という視点を問うことが「人が成長する厳しさ」だと思います。
人は責任を果たしてこそ他人に認められます。そしてその責任範囲を広げられる人はより大きな役割が与えられます。